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Channel: 中津スバルの濃いスバリストに贈る情報
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黎明期-すばる1500からスバル360へ

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様々な限定車や、高性能な「S」があろうとも、「優勝」の肩書きは、単なるコンプリートと格が違う。特に「STIバージョン」と銘打った「22B」が筆頭だろう。
レースに優勝したメモリアルモデルは、やはり何にも代え難い魅力がある。
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昨年十月に発売されると聞いて、
即座に注文したS207が届いた。


外れた人も多いので「当選した」と、
あまり大きな声で言えなかった。
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随分と念入りに作ってくれたようで、
待った甲斐があった。


仕事が落ち着いたら、
とにかく早く走らせたい。


恐らくオドメーターが1万キロ以上にならないと、
このクルマは真の力を発揮しないだろう。


それはなぜか。
VABは中島の血統を強く受け継いでいる。


最後まで読めば、
それが良く解るはずだ。


いち早くそれに気がついたのは、
この人かも知れない。


このブログ
実に面白い。


スバルの自動車開発史の中で、
車体構造は常に業界をリードした。


最近ではホットプレス加工材が、
スバルのボディに欠かせないパーツとなっている。


黎明期のスバルは、
日本で初めて、
フルモノコックの自動車ボディを造り上げた。


その66年の歴史が凝縮し、
VABの車体は半端じゃ無い剛性を持つ。


それを知っていたつもりだ。
でも、

これまた「つもり違い」だった。


慣らしにこれほど時間が掛かるとは思わなかった。


発表と同時に導入したWRXだから、
特に頑強なのだろう。


そのVABで、
4月5日から7日に掛けて長距離を走った。


暖かくなりDEの本格的なシーズンを迎え、
予約が増えてきた。


そこでサマータイヤに交換すると同時に、
まだ硬さの取れないSTIを慣らしたかった。


久しぶりにスポーツコンタクト6を履き、
ハイウエイからワインディングまで、
軽く走らせて慣らしを楽しんだ。


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コンチネンタルとVABの相性が良い理由も、
更に深く理解出来た。


路面のミューが下がると、
DCCDに組み込まれたLSDの締結力を緩和させる。


それが、
濡れた路面をヒタヒタと掴む、
コンチSC5と絶妙に合う。


テストにおあつらえ向きの、
激しい雨が降ったので、
その効果を充分感じることが出来た。
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ヘビーウエットだった高速道路が楽しいなんて、
本当に底知れないポテンシャルを持っている。


これまで乗ったどんなWRXでも感じることが出来なかった、
独特の操縦性能だ。
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スバルは国産車で初めてラジアルタイヤを装着し、
タイヤに対して昔から深い拘りを持っていた。


前のブログでも書いたが、
翼をもぎ取られた中島飛行機の後継者達は、
自主開発することに執念を燃やした。
だからタイヤの加硫まで自前でチャレンジした。
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雨が降ると普通なら危険で走りたくない道なのに、
VABだとワクワクドキドキして楽しくって仕方が無い。


クルマが思った通りの走行ラインをトレースするからだ。


新車の時に比べ燃費も著しく良くなった。

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改めてオドメーターを見ると、
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あと少しで1万キロになろうとしていた。


スバルオーナーズミーティングでお目に掛かった時、
「自分もいい年ですから」と仰った。
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その意味がすぐにわかった。
高津さんは今月からSTIに転籍した。


平川社長と彼が組んで、
どんな面白い仕事をするのか今から楽しみだ。


なぜなら、
高津さんはスバル史上最強のボディを作ったからだ。



その事がやっと実体験として身に滲みた。
これだけ強靱なボディと、
8000回転まで行けるエンジンを更に磨いたS207は、
やはりスバル史上最強のクルマだ。


改めてS207を手に入れたことを幸運に思った。


それを裏付ける出来事があった。


偶然、伊藤健さんから連絡があった。
「前から改修された姫路城を見たいと思っていました。
中津川を通過するので是非一献を!」と嬉しいお誘いだ。
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何よりもお目当ては「鶏ちゃん」だった。
22Bオーナーの心も鷲掴みにした、
中津川のB級グルメだ。
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久しぶりに飲みながら、
楽しく語らった。


「インプレッサの父」と崇める人物なので、
時間が経つのが早かった。


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伊藤さんもスバルの歴史の中で大きな足跡を残した方だ。
その人が「高津の言葉に嘘は無い」と言い切った。


インプレッサの父が認める男が作ったVAB。

VABに感じる塊のような剛性感は、
伊藤さんが求めた安全性の追求の間違いなく延長線上にある。


Sシリーズを定着させた伊藤さんの認めるS207こそ、
現在最強のSだろう。


しかも1万キロ以上走って漸く神髄を見せる。
広報車で借りたS207が、
入念な慣らしの後で貸し出された理由も納得出来た。


S207の慣らしを終えたら、
是非一度伊藤さんに乗ってもらおう。


この様な凄い人財達を、
スバルはなぜ輩出し続けるのか。
それは中島知久平の他に、
もう一人忘れてはならない「父」が居るからだろう。
その話をしてみたい。


終戦から5年後の1950年までを振り返る。


終戦直後の軍需産業は哀れと言うほか無かった。



日本は戦後処理を迅速に進め、
軍需工廠として使用していた工場を次々と返還した。


その一環として、
中島飛行機は社名を富士産業に変えた。


これで会社の定款も変わり、
飛行機を一切製造出来なくなった。



次にGHQは財閥の解体を命じた。


中島飛行機は財閥と呼べるような成り立ちでは無かったが、
東洋一の航空機製造会社に発展したために、
四大財閥と同じ扱いを受けることになった。


富士産業の各工場は、
バラバラにされた上で民需転換の許可を与えられた。


他の財閥と違って、
中島飛行機は民間需要に対応する産業部門が全く無かった。


従って、
全ての工場が全くゼロからのスタートを切ることになった。


とりあえず会社は残ったが、
あるけれど倒産したような状態だから、
誰もが食べるために命がけで働いた。


そういう時代だった。


その環境の中からラビットが生まれ、
終戦から5年経つと、
ようやく第二会社と呼ばれる新たな会社が設立された。


1950年(昭和25年)に誕生した第二会社は、
最終的に12社になった。



それぞれ独自の道を歩み始めた。



ラビットで混乱期を乗り切る会社もあれば、
決して良いとは言えない会社もあった。


ところが、
この年に勃発した朝鮮戦争が勃発し、

日本は思わぬ好景気に見舞われた。


いわゆる「特需」だ。


占領下にあった当時の社会状況も、
その時から大きくうねり始めた。


遂に航空機の生産が許可される可能性も生じた。
そうなれば日本の翼を再び取り返すことが出来る。



そこで12社の中に、
もう一度分断した会社を一つにまとる動きが芽生えた。


第二会社の設立から3年後の1953年7月15日、
まずその受け皿を作ることになった。


これが富士重工業株式会社の設立だ。


初代社長に日本興業銀行出身の北謙治が就任した。


この時の富士重工は、
あくまでも合併のための母体なので、
まだ完全な企業として体を成していなかった。


合併に向けて中心的役割を果たしたのは、
ラビットを作っていた富士工業と、
伊勢崎工場をベースに、
バスボディを作り始めた富士自動車工業だった。


この伊勢崎に、
後のスバル車を創世する百瀬晋六が居た。


伊勢崎では、
バスボディの仕事だけでは、
将来に限界があると感じていた。


そこでいち早く自動車の開発を決意し、
既に試作が始まっていた。


「航空機技術の粋を活かし、
国内最高水準の乗用車を開発する」
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これが国産初のフルモノコックボディを持つ、
P-1開発計画だ。
1954年2月、
構想から1年4ヶ月を経て試作車第一号が完成した。


当時の自動車のレベルから、
限りなく逸脱した軽さと強度を誇った。


当初、
P-1は富士精密工業製のFG4A型エンジンを搭載していた。
ところが富士精密はブリジストンに命運を握られ、
富士重工に合同することが出来なかった。
(後に富士精密はプリンス自動車工業と合併した)


そこで合併する事になっていた4社の中で、
エンジンを作る能力のあった大宮富士工業が、
新型直列四気筒エンジン「L4」の開発に着手した。


北社長は後に大同団結と呼ばれる、
5社の合併に全力を注いだ。
4社から5社に増えた理由は、
航空機生産を目指すためには、
滑走路を保有することが必須条件だったためだ。


12社の中に宇都宮車両があった。
鉄道分野に特化した民間需要に転じていたが、
所有する飛行場の返還を受けていた。


これは富士重工の飛行場にするのにうってつけで、
急遽6社の合同に加わることになった。


このようにして、
社長に就任した北謙治は、
「富士重工」に情熱を注いだ。
「必ず輸送器機の総合メーカーとして蘇生させる」
その思いが「すばる1500」という車名に込められた。



「すばる」は1000件もの候補から北社長が選んだ名前だ。
原案は「SUBAL」だったと聞いている。




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急ピッチで開発が進んだ大宮富士工業製のL4型エンジンは、
1955年3月に完成し、
翌月の「新生富士重工」の誕生に間に合った。



結局P-1は合計20台生産され、
その内の9台にL4エンジンが載った。



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【車名】

すばる1500


【型式】
P100


【主要諸元】
全長×全幅×全高(mm):4235×1670×1520
ホイールベース(mm):2535
車両重量(kg):1178(1230)
最小回転半径(m):5.55


【エンジン】
L4(FG4A)直列4気筒OHV
排気量1485(1484)cc
最高出力:55(48)ps/4400(4000)rpm
最大トルク:11(10)kg・m)/2700(2000)rpm


【変速機】
前進4段後進1段


【フロントサスペンション】
ダブルウイッシュボーン式独立懸架 コイルスプリング+復動式オイルダンパー
【リヤサスペンション】
車軸懸架方式 3枚リーフスプリング+復動式オイルダンパー
※カッコ内はFG4Aエンジン搭載車の数値


P-1の開発そのものは順調に進んだが、
資金余力や販売網の脆弱さから、
開発資金を調達することが出来ず、
1955年12月、
P-1計画の中止が正式に決まった。




結局試作車20台のうち、
12台は自家用車を兼ねてテストが2台続き、
ラビットの年次改良や、
スバル360の衝突安全テストにも使われた。


残りの6台は矢島タクシーで営業車として使われた。
モータースポーツで活躍中の「シムス」は遠い親戚だ。


現存するのは、

この1台だけだ。
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行方不明になったP-1が1台ある。

某社の研究実験に使われたと噂された。


その後にそっくりなクルマが発売されたためだが、
噂の真相は知らない。


その他の18台は、
将来のスバル車開発のために活かされたようだ。



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唯一現存するP-1は、
増加試作車の「すばる1500」だ。



ファンミーティングの日、
高速周回路を使ったパレードランを見送った後、
何気なく資料館を見た。


閉まっていたシャッターがいつの間にか開いている。


慌ただしく人が動き回り、
P-1のトランクを開け閉めしていた。


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するとP-1がゆっくり動き始めた。
周りに人が居るけれど、
誰も押している素振りは無い。


エンジン音も聞こえなかった。
動くはずが無いと思い込んでいるので、
不思議だなあと思い、
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慌てて駆けつけた。


すると、
資料館にクルマの姿は無く、
トレーラーに積み込まれようとしていた。


矢島工場に隣接する、
ビジターセンターに帰るところだった。


驚いたことに、

66年前のクルマだが、
自走可能な状態に保たれている。



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積み込む前に動く様子を撮影させて戴いた。

走行動画



実に幸運だった。
何度も見ているP-1だが、
エンジン音を聞くのは初めてだった。



トレーラーに積み込んだ後も、
エンジンルームを開けて調整作業に余念が無い。




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サスペンションの取り付け部分を初めて見て、
百瀬晋六の執念を感じた。
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飛行機にあるけれどクルマに無い物は翼だ。


クルマにあるけど飛行機に無い物はサスペンションだ。
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エンジンやボディは飛行機造りの延長線上で対応できる。
ところが、
サスペンションには中島飛行機の技術が活かせない。


百瀬晋六は作った経験が全く無いので、
一から全て作ろうとした。


スバルが自主開発に拘るのは、
ここDNAによるものだ。


スバルは自動車開発の歴史で、
ノックダウンを一度もして無い。



飛行機ではライセンス生産をしても、
自動車ではやらなかった。


P-1を開発する当時も、
サスペンションを台上でシュミレーションした。


現在もその血は脈々と受け継がれ、
最新のスバルグローバルプラットフォームも、
スバルならではの手法で開発されている。


例えば、
「サスキソ」と呼ばれる装置を例に挙げる。


実際のクルマを台上に乗せ、
サスペンション動きを詳細に可視化する装置だ。


正式な名前を、
サスペンション基礎特性計測装置という。


これはスバルが開発したもので、
計測器会社が作ったモノを購入している訳では無い。


実験棟に大きな穴を掘り、
しっかりとした基礎の上に成り立つ装置だ。


他の自動車メーカーが簡単に真似できないシロモノだ。

スバルは自主開発する能力を温め続けて居る。



この装置が、
ステアリングを僅か1度から2度切るだけでも、
大きな違いになって現れる「動的質感」を実現した。


間もなく発売される、
SGP(スバルグローバルプラットフォーム)は、
この様な土壌で燻蒸されて世の中に現れる。


実に楽しみだ。


資料館の中で、
他にもお宝が眠っている。
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P-1の開発を通じて働くクルマも構想された。
それがこのT-10だ。


これはボンネットトラックだが、
サンバーのルーツだと言える。


P-1の開発が中止されてから、
これが試作された事も興味深い。


4台試作され工場内で使われたらしい。
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当時の小型トラックは2名乗車で1.5トン積みのため、

3人乗車で2トン積みが可能なT-10の開発に挑戦したようだ。
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積載量を増やすために後輪タイヤを強化している。


前輪は650×16 6PRで後輪は750×16 12PRと強烈なタイヤだ。


エンジンの始動は可能らしいが、残念ながら走らせることは出来ない。



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これで資料館の中に、伊勢崎工場の一部が置かれた理由が解るはずだ。
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ラビットとは全く関係の無いところで、
自動車の開発が進んでいた。


自動車開発のルーツが伊勢崎工場にあった。


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サブロクは1958年(昭和33年)3月3日に発表された。
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サブロクについて、
今さら詳しく説明する理由は無い。
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しかしコマーシャルだけは別だろう。ここで初めて実物を見た。
中津スバルでも売ったことが無い。
コンバーチブルや、カスタム(バン)は販売したが、このコマーシャルだけは未体験だ。
発売されたのは発表から1年9ヶ月後の昭和34年12月。
サンバーが誕生する1年3ヶ月前だ。
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商用車のサンバーは昭和36年2月に発売された。


同時に太田工場と工場を統合して、
群馬製作所が誕生し、
生産能力を大幅に高めた。
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それはスバルにおける、生産面での歴史的なターンニングポイントだ。
コマーシャルには、それまでの繋ぎとしての役割があった。
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販売価格37万5000円だった。


その価格は、
セダンより23000円も安く、
まるでアイサイト並みの戦略価格だった。
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このクルマのコンセプトは、背水の陣から生まれたのだろう。
このクルマにも、スバルの本質が見え隠れする。
冒頭でS207に触れたのは、モデル初期でのコンプリート化が、異例中の異例だと思うからだ。
同時にインプレッサの歴史の中で、WRXは決して忘れられない存在だ。
WRXとして独立した今も、スバルの先鋒隊として常にチャレンジを続けて居る。
「最新のスバルが最良のスバル」
それを実感した一週間だった。

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