様々な限定車や、高性能な「S」があろうとも、「優勝」の肩書きは、単なるコンプリートと格が違う。特に「STIバージョン」と銘打った「22B」が筆頭だろう。
レースに優勝したメモリアルモデルは、やはり何にも代え難い魅力がある。
昨年十月に発売されると聞いて、
即座に注文したS207が届いた。
外れた人も多いので「当選した」と、
あまり大きな声で言えなかった。
随分と念入りに作ってくれたようで、
待った甲斐があった。
仕事が落ち着いたら、
とにかく早く走らせたい。
恐らくオドメーターが1万キロ以上にならないと、
このクルマは真の力を発揮しないだろう。
それはなぜか。
VABは中島の血統を強く受け継いでいる。
最後まで読めば、
それが良く解るはずだ。
いち早くそれに気がついたのは、
この人かも知れない。
このブログ
実に面白い。
スバルの自動車開発史の中で、
車体構造は常に業界をリードした。
最近ではホットプレス加工材が、
スバルのボディに欠かせないパーツとなっている。
黎明期のスバルは、
日本で初めて、
フルモノコックの自動車ボディを造り上げた。
その66年の歴史が凝縮し、
VABの車体は半端じゃ無い剛性を持つ。
それを知っていたつもりだ。
でも、
これまた「つもり違い」だった。
慣らしにこれほど時間が掛かるとは思わなかった。
発表と同時に導入したWRXだから、
特に頑強なのだろう。
そのVABで、
4月5日から7日に掛けて長距離を走った。
暖かくなりDEの本格的なシーズンを迎え、
予約が増えてきた。
そこでサマータイヤに交換すると同時に、
まだ硬さの取れないSTIを慣らしたかった。
久しぶりにスポーツコンタクト6を履き、
ハイウエイからワインディングまで、
軽く走らせて慣らしを楽しんだ。
コンチネンタルとVABの相性が良い理由も、
更に深く理解出来た。
路面のミューが下がると、
DCCDに組み込まれたLSDの締結力を緩和させる。
それが、
濡れた路面をヒタヒタと掴む、
コンチSC5と絶妙に合う。
テストにおあつらえ向きの、
激しい雨が降ったので、
その効果を充分感じることが出来た。
ヘビーウエットだった高速道路が楽しいなんて、
本当に底知れないポテンシャルを持っている。
これまで乗ったどんなWRXでも感じることが出来なかった、
独特の操縦性能だ。
スバルは国産車で初めてラジアルタイヤを装着し、
タイヤに対して昔から深い拘りを持っていた。
前のブログでも書いたが、
翼をもぎ取られた中島飛行機の後継者達は、
自主開発することに執念を燃やした。
だからタイヤの加硫まで自前でチャレンジした。
雨が降ると普通なら危険で走りたくない道なのに、
VABだとワクワクドキドキして楽しくって仕方が無い。
クルマが思った通りの走行ラインをトレースするからだ。
新車の時に比べ燃費も著しく良くなった。
改めてオドメーターを見ると、
あと少しで1万キロになろうとしていた。
スバルオーナーズミーティングでお目に掛かった時、
「自分もいい年ですから」と仰った。
その意味がすぐにわかった。
高津さんは今月からSTIに転籍した。
平川社長と彼が組んで、
どんな面白い仕事をするのか今から楽しみだ。
なぜなら、
高津さんはスバル史上最強のボディを作ったからだ。
その事がやっと実体験として身に滲みた。
これだけ強靱なボディと、
8000回転まで行けるエンジンを更に磨いたS207は、
やはりスバル史上最強のクルマだ。
改めてS207を手に入れたことを幸運に思った。
それを裏付ける出来事があった。
偶然、伊藤健さんから連絡があった。
「前から改修された姫路城を見たいと思っていました。
中津川を通過するので是非一献を!」と嬉しいお誘いだ。
何よりもお目当ては「鶏ちゃん」だった。
22Bオーナーの心も鷲掴みにした、
中津川のB級グルメだ。
久しぶりに飲みながら、
楽しく語らった。
「インプレッサの父」と崇める人物なので、
時間が経つのが早かった。
伊藤さんもスバルの歴史の中で大きな足跡を残した方だ。
その人が「高津の言葉に嘘は無い」と言い切った。
インプレッサの父が認める男が作ったVAB。
VABに感じる塊のような剛性感は、
伊藤さんが求めた安全性の追求の間違いなく延長線上にある。
Sシリーズを定着させた伊藤さんの認めるS207こそ、
現在最強のSだろう。
しかも1万キロ以上走って漸く神髄を見せる。
広報車で借りたS207が、
入念な慣らしの後で貸し出された理由も納得出来た。
S207の慣らしを終えたら、
是非一度伊藤さんに乗ってもらおう。
この様な凄い人財達を、
スバルはなぜ輩出し続けるのか。
それは中島知久平の他に、
もう一人忘れてはならない「父」が居るからだろう。
その話をしてみたい。
終戦から5年後の1950年までを振り返る。
終戦直後の軍需産業は哀れと言うほか無かった。
日本は戦後処理を迅速に進め、
軍需工廠として使用していた工場を次々と返還した。
その一環として、
中島飛行機は社名を富士産業に変えた。
これで会社の定款も変わり、
飛行機を一切製造出来なくなった。
次にGHQは財閥の解体を命じた。
中島飛行機は財閥と呼べるような成り立ちでは無かったが、
東洋一の航空機製造会社に発展したために、
四大財閥と同じ扱いを受けることになった。
富士産業の各工場は、
バラバラにされた上で民需転換の許可を与えられた。
他の財閥と違って、
中島飛行機は民間需要に対応する産業部門が全く無かった。
従って、
全ての工場が全くゼロからのスタートを切ることになった。
とりあえず会社は残ったが、
あるけれど倒産したような状態だから、
誰もが食べるために命がけで働いた。
そういう時代だった。
その環境の中からラビットが生まれ、
終戦から5年経つと、
ようやく第二会社と呼ばれる新たな会社が設立された。
1950年(昭和25年)に誕生した第二会社は、
最終的に12社になった。
それぞれ独自の道を歩み始めた。
ラビットで混乱期を乗り切る会社もあれば、
決して良いとは言えない会社もあった。
ところが、
この年に勃発した朝鮮戦争が勃発し、
日本は思わぬ好景気に見舞われた。
いわゆる「特需」だ。
占領下にあった当時の社会状況も、
その時から大きくうねり始めた。
遂に航空機の生産が許可される可能性も生じた。
そうなれば日本の翼を再び取り返すことが出来る。
そこで12社の中に、
もう一度分断した会社を一つにまとる動きが芽生えた。
第二会社の設立から3年後の1953年7月15日、
まずその受け皿を作ることになった。
これが富士重工業株式会社の設立だ。
初代社長に日本興業銀行出身の北謙治が就任した。
この時の富士重工は、
あくまでも合併のための母体なので、
まだ完全な企業として体を成していなかった。
合併に向けて中心的役割を果たしたのは、
ラビットを作っていた富士工業と、
伊勢崎工場をベースに、
バスボディを作り始めた富士自動車工業だった。
この伊勢崎に、
後のスバル車を創世する百瀬晋六が居た。
伊勢崎では、
バスボディの仕事だけでは、
将来に限界があると感じていた。
そこでいち早く自動車の開発を決意し、
既に試作が始まっていた。
「航空機技術の粋を活かし、
国内最高水準の乗用車を開発する」
これが国産初のフルモノコックボディを持つ、
P-1開発計画だ。
1954年2月、
構想から1年4ヶ月を経て試作車第一号が完成した。
当時の自動車のレベルから、
限りなく逸脱した軽さと強度を誇った。
当初、
P-1は富士精密工業製のFG4A型エンジンを搭載していた。
ところが富士精密はブリジストンに命運を握られ、
富士重工に合同することが出来なかった。
(後に富士精密はプリンス自動車工業と合併した)
そこで合併する事になっていた4社の中で、
エンジンを作る能力のあった大宮富士工業が、
新型直列四気筒エンジン「L4」の開発に着手した。
北社長は後に大同団結と呼ばれる、
5社の合併に全力を注いだ。
4社から5社に増えた理由は、
航空機生産を目指すためには、
滑走路を保有することが必須条件だったためだ。
12社の中に宇都宮車両があった。
鉄道分野に特化した民間需要に転じていたが、
所有する飛行場の返還を受けていた。
これは富士重工の飛行場にするのにうってつけで、
急遽6社の合同に加わることになった。
このようにして、
社長に就任した北謙治は、
「富士重工」に情熱を注いだ。
「必ず輸送器機の総合メーカーとして蘇生させる」
その思いが「すばる1500」という車名に込められた。
「すばる」は1000件もの候補から北社長が選んだ名前だ。
原案は「SUBAL」だったと聞いている。
急ピッチで開発が進んだ大宮富士工業製のL4型エンジンは、
1955年3月に完成し、
翌月の「新生富士重工」の誕生に間に合った。
結局P-1は合計20台生産され、
その内の9台にL4エンジンが載った。
【車名】
すばる1500
【型式】
P100
【主要諸元】
全長×全幅×全高(mm):4235×1670×1520
ホイールベース(mm):2535
車両重量(kg):1178(1230)
最小回転半径(m):5.55
【エンジン】
L4(FG4A)直列4気筒OHV
排気量1485(1484)cc
最高出力:55(48)ps/4400(4000)rpm
最大トルク:11(10)kg・m)/2700(2000)rpm
【変速機】
前進4段後進1段
【フロントサスペンション】
ダブルウイッシュボーン式独立懸架 コイルスプリング+復動式オイルダンパー
【リヤサスペンション】
車軸懸架方式 3枚リーフスプリング+復動式オイルダンパー
※カッコ内はFG4Aエンジン搭載車の数値
P-1の開発そのものは順調に進んだが、
資金余力や販売網の脆弱さから、
開発資金を調達することが出来ず、
1955年12月、
P-1計画の中止が正式に決まった。
結局試作車20台のうち、
12台は自家用車を兼ねてテストが2台続き、
ラビットの年次改良や、
スバル360の衝突安全テストにも使われた。
残りの6台は矢島タクシーで営業車として使われた。
モータースポーツで活躍中の「シムス」は遠い親戚だ。
現存するのは、
この1台だけだ。
行方不明になったP-1が1台ある。
某社の研究実験に使われたと噂された。
その後にそっくりなクルマが発売されたためだが、
噂の真相は知らない。
その他の18台は、
将来のスバル車開発のために活かされたようだ。
唯一現存するP-1は、
増加試作車の「すばる1500」だ。
ファンミーティングの日、
高速周回路を使ったパレードランを見送った後、
何気なく資料館を見た。
閉まっていたシャッターがいつの間にか開いている。
慌ただしく人が動き回り、
P-1のトランクを開け閉めしていた。
するとP-1がゆっくり動き始めた。
周りに人が居るけれど、
誰も押している素振りは無い。
エンジン音も聞こえなかった。
動くはずが無いと思い込んでいるので、
不思議だなあと思い、
慌てて駆けつけた。
すると、
資料館にクルマの姿は無く、
トレーラーに積み込まれようとしていた。
矢島工場に隣接する、
ビジターセンターに帰るところだった。
驚いたことに、
66年前のクルマだが、
自走可能な状態に保たれている。
積み込む前に動く様子を撮影させて戴いた。
↓
走行動画
実に幸運だった。
何度も見ているP-1だが、
エンジン音を聞くのは初めてだった。
トレーラーに積み込んだ後も、
エンジンルームを開けて調整作業に余念が無い。
サスペンションの取り付け部分を初めて見て、
百瀬晋六の執念を感じた。
飛行機にあるけれどクルマに無い物は翼だ。
クルマにあるけど飛行機に無い物はサスペンションだ。
エンジンやボディは飛行機造りの延長線上で対応できる。
ところが、
サスペンションには中島飛行機の技術が活かせない。
百瀬晋六は作った経験が全く無いので、
一から全て作ろうとした。
スバルが自主開発に拘るのは、
ここDNAによるものだ。
スバルは自動車開発の歴史で、
ノックダウンを一度もして無い。
飛行機ではライセンス生産をしても、
自動車ではやらなかった。
P-1を開発する当時も、
サスペンションを台上でシュミレーションした。
現在もその血は脈々と受け継がれ、
最新のスバルグローバルプラットフォームも、
スバルならではの手法で開発されている。
例えば、
「サスキソ」と呼ばれる装置を例に挙げる。
実際のクルマを台上に乗せ、
サスペンション動きを詳細に可視化する装置だ。
正式な名前を、
サスペンション基礎特性計測装置という。
これはスバルが開発したもので、
計測器会社が作ったモノを購入している訳では無い。
実験棟に大きな穴を掘り、
しっかりとした基礎の上に成り立つ装置だ。
他の自動車メーカーが簡単に真似できないシロモノだ。
スバルは自主開発する能力を温め続けて居る。
この装置が、
ステアリングを僅か1度から2度切るだけでも、
大きな違いになって現れる「動的質感」を実現した。
間もなく発売される、
SGP(スバルグローバルプラットフォーム)は、
この様な土壌で燻蒸されて世の中に現れる。
実に楽しみだ。
資料館の中で、
他にもお宝が眠っている。
P-1の開発を通じて働くクルマも構想された。
それがこのT-10だ。
これはボンネットトラックだが、
サンバーのルーツだと言える。
P-1の開発が中止されてから、
これが試作された事も興味深い。
4台試作され工場内で使われたらしい。
当時の小型トラックは2名乗車で1.5トン積みのため、
3人乗車で2トン積みが可能なT-10の開発に挑戦したようだ。
積載量を増やすために後輪タイヤを強化している。
前輪は650×16 6PRで後輪は750×16 12PRと強烈なタイヤだ。
エンジンの始動は可能らしいが、残念ながら走らせることは出来ない。
これで資料館の中に、伊勢崎工場の一部が置かれた理由が解るはずだ。 ラビットとは全く関係の無いところで、
自動車の開発が進んでいた。
自動車開発のルーツが伊勢崎工場にあった。
サブロクは1958年(昭和33年)3月3日に発表された。
サブロクについて、
今さら詳しく説明する理由は無い。
しかしコマーシャルだけは別だろう。ここで初めて実物を見た。
中津スバルでも売ったことが無い。
コンバーチブルや、カスタム(バン)は販売したが、このコマーシャルだけは未体験だ。
発売されたのは発表から1年9ヶ月後の昭和34年12月。
サンバーが誕生する1年3ヶ月前だ。 商用車のサンバーは昭和36年2月に発売された。
同時に太田工場と工場を統合して、
群馬製作所が誕生し、
生産能力を大幅に高めた。
それはスバルにおける、生産面での歴史的なターンニングポイントだ。
コマーシャルには、それまでの繋ぎとしての役割があった。 販売価格37万5000円だった。
その価格は、
セダンより23000円も安く、
まるでアイサイト並みの戦略価格だった。
このクルマのコンセプトは、背水の陣から生まれたのだろう。
このクルマにも、スバルの本質が見え隠れする。
冒頭でS207に触れたのは、モデル初期でのコンプリート化が、異例中の異例だと思うからだ。
同時にインプレッサの歴史の中で、WRXは決して忘れられない存在だ。
WRXとして独立した今も、スバルの先鋒隊として常にチャレンジを続けて居る。
「最新のスバルが最良のスバル」
それを実感した一週間だった。
レースに優勝したメモリアルモデルは、やはり何にも代え難い魅力がある。
即座に注文したS207が届いた。
外れた人も多いので「当選した」と、
あまり大きな声で言えなかった。
待った甲斐があった。
仕事が落ち着いたら、
とにかく早く走らせたい。
恐らくオドメーターが1万キロ以上にならないと、
このクルマは真の力を発揮しないだろう。
それはなぜか。
VABは中島の血統を強く受け継いでいる。
最後まで読めば、
それが良く解るはずだ。
いち早くそれに気がついたのは、
この人かも知れない。
このブログ
実に面白い。
スバルの自動車開発史の中で、
車体構造は常に業界をリードした。
最近ではホットプレス加工材が、
スバルのボディに欠かせないパーツとなっている。
黎明期のスバルは、
日本で初めて、
フルモノコックの自動車ボディを造り上げた。
その66年の歴史が凝縮し、
VABの車体は半端じゃ無い剛性を持つ。
それを知っていたつもりだ。
でも、
これまた「つもり違い」だった。
慣らしにこれほど時間が掛かるとは思わなかった。
発表と同時に導入したWRXだから、
特に頑強なのだろう。
そのVABで、
4月5日から7日に掛けて長距離を走った。
暖かくなりDEの本格的なシーズンを迎え、
予約が増えてきた。
そこでサマータイヤに交換すると同時に、
まだ硬さの取れないSTIを慣らしたかった。
久しぶりにスポーツコンタクト6を履き、
ハイウエイからワインディングまで、
軽く走らせて慣らしを楽しんだ。
更に深く理解出来た。
路面のミューが下がると、
DCCDに組み込まれたLSDの締結力を緩和させる。
それが、
濡れた路面をヒタヒタと掴む、
コンチSC5と絶妙に合う。
テストにおあつらえ向きの、
激しい雨が降ったので、
その効果を充分感じることが出来た。
本当に底知れないポテンシャルを持っている。
これまで乗ったどんなWRXでも感じることが出来なかった、
独特の操縦性能だ。
タイヤに対して昔から深い拘りを持っていた。
前のブログでも書いたが、
翼をもぎ取られた中島飛行機の後継者達は、
自主開発することに執念を燃やした。
だからタイヤの加硫まで自前でチャレンジした。
VABだとワクワクドキドキして楽しくって仕方が無い。
クルマが思った通りの走行ラインをトレースするからだ。
新車の時に比べ燃費も著しく良くなった。
スバルオーナーズミーティングでお目に掛かった時、
「自分もいい年ですから」と仰った。
高津さんは今月からSTIに転籍した。
平川社長と彼が組んで、
どんな面白い仕事をするのか今から楽しみだ。
なぜなら、
高津さんはスバル史上最強のボディを作ったからだ。
その事がやっと実体験として身に滲みた。
これだけ強靱なボディと、
8000回転まで行けるエンジンを更に磨いたS207は、
やはりスバル史上最強のクルマだ。
改めてS207を手に入れたことを幸運に思った。
それを裏付ける出来事があった。
偶然、伊藤健さんから連絡があった。
「前から改修された姫路城を見たいと思っていました。
中津川を通過するので是非一献を!」と嬉しいお誘いだ。
22Bオーナーの心も鷲掴みにした、
中津川のB級グルメだ。
楽しく語らった。
「インプレッサの父」と崇める人物なので、
時間が経つのが早かった。
その人が「高津の言葉に嘘は無い」と言い切った。
インプレッサの父が認める男が作ったVAB。
VABに感じる塊のような剛性感は、
伊藤さんが求めた安全性の追求の間違いなく延長線上にある。
Sシリーズを定着させた伊藤さんの認めるS207こそ、
現在最強のSだろう。
しかも1万キロ以上走って漸く神髄を見せる。
広報車で借りたS207が、
入念な慣らしの後で貸し出された理由も納得出来た。
S207の慣らしを終えたら、
是非一度伊藤さんに乗ってもらおう。
この様な凄い人財達を、
スバルはなぜ輩出し続けるのか。
それは中島知久平の他に、
もう一人忘れてはならない「父」が居るからだろう。
その話をしてみたい。
終戦から5年後の1950年までを振り返る。
終戦直後の軍需産業は哀れと言うほか無かった。
日本は戦後処理を迅速に進め、
軍需工廠として使用していた工場を次々と返還した。
その一環として、
中島飛行機は社名を富士産業に変えた。
これで会社の定款も変わり、
飛行機を一切製造出来なくなった。
次にGHQは財閥の解体を命じた。
中島飛行機は財閥と呼べるような成り立ちでは無かったが、
東洋一の航空機製造会社に発展したために、
四大財閥と同じ扱いを受けることになった。
富士産業の各工場は、
バラバラにされた上で民需転換の許可を与えられた。
他の財閥と違って、
中島飛行機は民間需要に対応する産業部門が全く無かった。
従って、
全ての工場が全くゼロからのスタートを切ることになった。
とりあえず会社は残ったが、
あるけれど倒産したような状態だから、
誰もが食べるために命がけで働いた。
そういう時代だった。
その環境の中からラビットが生まれ、
終戦から5年経つと、
ようやく第二会社と呼ばれる新たな会社が設立された。
1950年(昭和25年)に誕生した第二会社は、
最終的に12社になった。
それぞれ独自の道を歩み始めた。
ラビットで混乱期を乗り切る会社もあれば、
決して良いとは言えない会社もあった。
ところが、
この年に勃発した朝鮮戦争が勃発し、
日本は思わぬ好景気に見舞われた。
いわゆる「特需」だ。
占領下にあった当時の社会状況も、
その時から大きくうねり始めた。
遂に航空機の生産が許可される可能性も生じた。
そうなれば日本の翼を再び取り返すことが出来る。
そこで12社の中に、
もう一度分断した会社を一つにまとる動きが芽生えた。
第二会社の設立から3年後の1953年7月15日、
まずその受け皿を作ることになった。
これが富士重工業株式会社の設立だ。
初代社長に日本興業銀行出身の北謙治が就任した。
この時の富士重工は、
あくまでも合併のための母体なので、
まだ完全な企業として体を成していなかった。
合併に向けて中心的役割を果たしたのは、
ラビットを作っていた富士工業と、
伊勢崎工場をベースに、
バスボディを作り始めた富士自動車工業だった。
この伊勢崎に、
後のスバル車を創世する百瀬晋六が居た。
伊勢崎では、
バスボディの仕事だけでは、
将来に限界があると感じていた。
そこでいち早く自動車の開発を決意し、
既に試作が始まっていた。
「航空機技術の粋を活かし、
国内最高水準の乗用車を開発する」
これが国産初のフルモノコックボディを持つ、
P-1開発計画だ。
1954年2月、
構想から1年4ヶ月を経て試作車第一号が完成した。
当時の自動車のレベルから、
限りなく逸脱した軽さと強度を誇った。
当初、
P-1は富士精密工業製のFG4A型エンジンを搭載していた。
ところが富士精密はブリジストンに命運を握られ、
富士重工に合同することが出来なかった。
(後に富士精密はプリンス自動車工業と合併した)
そこで合併する事になっていた4社の中で、
エンジンを作る能力のあった大宮富士工業が、
新型直列四気筒エンジン「L4」の開発に着手した。
北社長は後に大同団結と呼ばれる、
5社の合併に全力を注いだ。
4社から5社に増えた理由は、
航空機生産を目指すためには、
滑走路を保有することが必須条件だったためだ。
12社の中に宇都宮車両があった。
鉄道分野に特化した民間需要に転じていたが、
所有する飛行場の返還を受けていた。
これは富士重工の飛行場にするのにうってつけで、
急遽6社の合同に加わることになった。
このようにして、
社長に就任した北謙治は、
「富士重工」に情熱を注いだ。
「必ず輸送器機の総合メーカーとして蘇生させる」
その思いが「すばる1500」という車名に込められた。
「すばる」は1000件もの候補から北社長が選んだ名前だ。
原案は「SUBAL」だったと聞いている。
急ピッチで開発が進んだ大宮富士工業製のL4型エンジンは、
1955年3月に完成し、
翌月の「新生富士重工」の誕生に間に合った。
結局P-1は合計20台生産され、
その内の9台にL4エンジンが載った。
【車名】
すばる1500
【型式】
P100
【主要諸元】
全長×全幅×全高(mm):4235×1670×1520
ホイールベース(mm):2535
車両重量(kg):1178(1230)
最小回転半径(m):5.55
【エンジン】
L4(FG4A)直列4気筒OHV
排気量1485(1484)cc
最高出力:55(48)ps/4400(4000)rpm
最大トルク:11(10)kg・m)/2700(2000)rpm
【変速機】
前進4段後進1段
【フロントサスペンション】
ダブルウイッシュボーン式独立懸架 コイルスプリング+復動式オイルダンパー
【リヤサスペンション】
車軸懸架方式 3枚リーフスプリング+復動式オイルダンパー
※カッコ内はFG4Aエンジン搭載車の数値
P-1の開発そのものは順調に進んだが、
資金余力や販売網の脆弱さから、
開発資金を調達することが出来ず、
1955年12月、
P-1計画の中止が正式に決まった。
結局試作車20台のうち、
12台は自家用車を兼ねてテストが2台続き、
ラビットの年次改良や、
スバル360の衝突安全テストにも使われた。
残りの6台は矢島タクシーで営業車として使われた。
モータースポーツで活躍中の「シムス」は遠い親戚だ。
現存するのは、
この1台だけだ。
行方不明になったP-1が1台ある。
某社の研究実験に使われたと噂された。
その後にそっくりなクルマが発売されたためだが、
噂の真相は知らない。
その他の18台は、
将来のスバル車開発のために活かされたようだ。
増加試作車の「すばる1500」だ。
ファンミーティングの日、
高速周回路を使ったパレードランを見送った後、
何気なく資料館を見た。
閉まっていたシャッターがいつの間にか開いている。
慌ただしく人が動き回り、
P-1のトランクを開け閉めしていた。
周りに人が居るけれど、
誰も押している素振りは無い。
エンジン音も聞こえなかった。
動くはずが無いと思い込んでいるので、
不思議だなあと思い、
すると、
資料館にクルマの姿は無く、
トレーラーに積み込まれようとしていた。
矢島工場に隣接する、
ビジターセンターに帰るところだった。
驚いたことに、
66年前のクルマだが、
自走可能な状態に保たれている。
↓
走行動画
実に幸運だった。
何度も見ているP-1だが、
エンジン音を聞くのは初めてだった。
トレーラーに積み込んだ後も、
エンジンルームを開けて調整作業に余念が無い。
サスペンションの取り付け部分を初めて見て、
百瀬晋六の執念を感じた。
クルマにあるけど飛行機に無い物はサスペンションだ。
エンジンやボディは飛行機造りの延長線上で対応できる。
ところが、
サスペンションには中島飛行機の技術が活かせない。
百瀬晋六は作った経験が全く無いので、
一から全て作ろうとした。
スバルが自主開発に拘るのは、
ここDNAによるものだ。
スバルは自動車開発の歴史で、
ノックダウンを一度もして無い。
飛行機ではライセンス生産をしても、
自動車ではやらなかった。
P-1を開発する当時も、
サスペンションを台上でシュミレーションした。
現在もその血は脈々と受け継がれ、
最新のスバルグローバルプラットフォームも、
スバルならではの手法で開発されている。
例えば、
「サスキソ」と呼ばれる装置を例に挙げる。
実際のクルマを台上に乗せ、
サスペンション動きを詳細に可視化する装置だ。
正式な名前を、
サスペンション基礎特性計測装置という。
これはスバルが開発したもので、
計測器会社が作ったモノを購入している訳では無い。
実験棟に大きな穴を掘り、
しっかりとした基礎の上に成り立つ装置だ。
他の自動車メーカーが簡単に真似できないシロモノだ。
スバルは自主開発する能力を温め続けて居る。
この装置が、
ステアリングを僅か1度から2度切るだけでも、
大きな違いになって現れる「動的質感」を実現した。
間もなく発売される、
SGP(スバルグローバルプラットフォーム)は、
この様な土壌で燻蒸されて世の中に現れる。
実に楽しみだ。
資料館の中で、
他にもお宝が眠っている。
P-1の開発を通じて働くクルマも構想された。
それがこのT-10だ。
これはボンネットトラックだが、
サンバーのルーツだと言える。
P-1の開発が中止されてから、
これが試作された事も興味深い。
4台試作され工場内で使われたらしい。
当時の小型トラックは2名乗車で1.5トン積みのため、
3人乗車で2トン積みが可能なT-10の開発に挑戦したようだ。
積載量を増やすために後輪タイヤを強化している。
前輪は650×16 6PRで後輪は750×16 12PRと強烈なタイヤだ。
エンジンの始動は可能らしいが、残念ながら走らせることは出来ない。
自動車の開発が進んでいた。
自動車開発のルーツが伊勢崎工場にあった。
今さら詳しく説明する理由は無い。
中津スバルでも売ったことが無い。
コンバーチブルや、カスタム(バン)は販売したが、このコマーシャルだけは未体験だ。
発売されたのは発表から1年9ヶ月後の昭和34年12月。
サンバーが誕生する1年3ヶ月前だ。
同時に太田工場と工場を統合して、
群馬製作所が誕生し、
生産能力を大幅に高めた。
コマーシャルには、それまでの繋ぎとしての役割があった。
その価格は、
セダンより23000円も安く、
まるでアイサイト並みの戦略価格だった。
このクルマにも、スバルの本質が見え隠れする。
冒頭でS207に触れたのは、モデル初期でのコンプリート化が、異例中の異例だと思うからだ。
同時にインプレッサの歴史の中で、WRXは決して忘れられない存在だ。
WRXとして独立した今も、スバルの先鋒隊として常にチャレンジを続けて居る。
「最新のスバルが最良のスバル」
それを実感した一週間だった。