6年ぶりに葛生研究実験センターの資料館に入った。
その当時はまだショーウインドーなど存在せず、
中には空調も備わっていなかったが、
すっかり垢抜けた場所になっていた。
今年から研究実験センターの管理下を離れ、
本社の総務部が直接管理することになった。
だから文化財として益々大切に出来る環境が整うはずだ。
SUBARUの文字に並べられた煉瓦は、
由緒正しい工場を解体した時の遺物だ。
とても良い使い方だ。
前に来た時は誰も居なかったが、
資料館の奥に膨大な資料を管理する人達が居た。
その一人が富士テクノサービス株式会社の天笠孝之さんだ。
群馬事業所のレストアチームで、
中心的役割を果たされている。
この日も縁の下の力持ち達が、
多くの古い資産を大切にメンテナンスしていた。
いわゆる「生き字引」と言える方達が居るからこそ、
保管車両が常に動く状態に維持されている。
沢山のスクーターが所狭しと並べられていた。
これを見て、
ある事が頭をよぎった。
軽自動車の生産から全面撤退すると聞いた時、
誰からも呆れられるほど冷静で居られたのは、
恐らく二つの理由からだろう。
一つは、
軽自動車の歪な販売形態に辟易としていた。
シロートでも簡単に売れるシステムは時代に迎合したかも知れないが、
クルマとしての「Proud」を完全に捨てた。
だから徐々に売る魅力を感じなくなった。
もう一つは、
子供の頃ある日突然スクータービジネスが消えた。
スバルはサブロクより前にラビットを売り始めた。
そしてスバル1000と併売しながら、
22年間の永きに渡り改良を続けた。
スバルに於けるスクーターの歴史は、
昭和43年2月5日の役員会で幕を閉じた。
その理由は皮肉にも、
当時は軽自動車のシェアアップが急務だったので、
そちらに「選択と集中」が決断された。
そして同年4月に製造が終わった。
撤退当時に生産されていたラビットが右端に並べられている。
向かって一番右に見えるのがラビット スーパーフローS601型だ。
昭和34年から販売が始まり、
7度のマイナーチェンジを経て昭和43年まで続いた。
全部で74.704台製造された名車だ。
排気量は200ccで全長1900mm定員2名車両重量150kgだった。
その左にアイボリーのラビット90ハイスーパーS211が見える。
立てスリットの簡素なグリルが目印だ。
90ccクラスの上級スクーターとして開発された「最後のラビット」だ。
昭和41年から僅か2年間だけ販売され、
昭和43年に生産が終わるまでに全部で21.564台が作られた。
排気量は90ccで5.5馬力を発生する2サイクルエンジンを、
ほぼ水平に寝かせて搭載し、
積載性を良くしたスクーターだった。
その奥に微かに並んで見えるのが、
このラビットジュニアS301型と言われるタイプだ。
これはS601の2年後、
昭和36年9月から販売が始まり、
何と16度にも渡るマイナーチェンジや派生車の発表を重ねた、
ベストセラーカーだ。
昭和43年5月に生産を終えた時、
その累計は145.867台だった。
排気量は125ccで軽量低価格を狙った製品だった。
どことなくスタイルに愛嬌を覚える理由は、
スバル360を担当した佐々木達三氏がデザインしたからだろう。
これらを通称ラビット三兄弟という。
子供心にも「ラビット」というと、
すぐに思い出されるのはジュニアだった。
それとラビットに跨がると、
とにかく「重い」という印象だった。
当時はなぜこれほど複雑なバリエーションがあるのか、
まだ小学校低学年の子供では理解出来なかった。
22年間もの間に渡り、
総計で637.487台生産された。
今はただもったいなかったと思うしか無いが、
いつもラビットのスクラップが放置されていた。
同じ頃から放置されていた1300Gは残して置いたが、
結局ラビットを運転する意欲が湧かず、
一台も残っていない。
中島飛行機ほど世間知らずな会社は無かった。
それは飛行機を作っていたからだ。
性能さえ良ければ国が買い上げる。
従って販売網も必要無いし、
創立以来終戦まで黙っていても仕事が来た。
飛行機の歴史はアメリカで、
ライト兄弟が空を翔けた時から始まった。
それは僅か106年前の事に過ぎない。
その7年後、
チャレンジ精神に溢れた日本人も、
遂に大空を空を翔けた。
徳川好敏と日野熊蔵の残した功績は偉大だ。
徳川大尉の操縦するフランス製のファルマン機は、
高度70m、距離3.000m、滞空時間4分の記録を残した。
徳川さんと日野さんの関係が今ひとつ不明瞭だが、
共同で成し得た成果なのだろう。
その4年後、
1914年7月、第一次世界大戦が勃発した。
その時、中島知久平はフランスに居た。
直ちに呼び戻され飛行機の生産に携わり、
完成した2機のファルマン機が青島攻略戦に向かった。
その後、
知久平は大艦巨砲主義の行く末を憂い、
総勢僅か9名で中島飛行機研究所を設立した。
1917年12月10日の事だ。
来年の12月10日が「真の100年祭」となる。
東洋一の航空機生産会社「中島飛行機」はlこの様にして誕生した。
日本の歴史に残る数々の飛行機を産み出し、
国産初のジェット戦闘機も開発したが、
第二次世界大戦で敗戦した時、
全ての翼をもぎ取られた。
資料館の前を飾った煉瓦は、
内部でも見事なモニュメントを形成している。
1912年に撚糸工場として作られた煉瓦工場は、
1941年に中島飛行機に売却され、
戦闘機の製造が進められた。
終戦後はP-1の開発からスバル360まで、
この工場が起点となった。
しかしその前にも忘れてはならない歴史がある。
それが「ラビット」の誕生だ。
終戦後、それまでの技術者達は途方に暮れたが、
すぐに生きるための仕事を考え出した。
中島は他に比べ最も大きな航空会社だった故、
GHQの厳しい目に晒された。
接収され会社もズタズタに分割されたが、
12の製作所が手元に残った資材を使って生き延びた。
なにしろ鍋や釜、
それにミシンまで作り終戦直後の混乱期を生き延びた。
そんな中、
昭和20年の暮れに、
太田の呑竜工場に居た石原竜作という男が、
面白いモノを見つけて来た。
出張で中島航空機の下請けだった、
東京の野村工業を訪れた時の事だ。
そこにポウエルという米国製のスクーターがあったので、
上司の井出英次に報告した。
井出は優秀な男で、
その話を聞くとすぐに野村工業からポウエルを借用し、
製品化の可能性を探った。
そして車体を太田の呑竜工場が担当し、
エンジンを三鷹工場が開発する事になった。
これがラビットS-1型の誕生に繋がる経緯だ。
このスクーターには呑竜工場で作られたことが明確に記されている。
これの発見には逸話がある。
竹中元社長がスバルの誕生50周年を記念し、
現在のビジターセンターを計画した。
表に出るとまずいので秘密裏に古いスバルを探す日が続いていた。
そんなある日、
群馬県の農家で納屋の中から、
奇跡的に原形を留めたラビットが見つかった。
お金の問題では無く譲れないという持ち主を、
スバルの社員が丁寧に説得してこの場所へ戻ってきた。
なんと55年ぶりの里帰りだった。
納屋の中とは言え、
普通なら錆びてしまうはずだが、
奇麗に残ったのには理由がある。
この車体の板金部品は、
戦闘機の残り物で作られている。
すなわち素材にジェラルミンが使われているため、
ほとんど腐食せずに原形を留めた。
太田と東京の三鷹工場で担当を分けたとは言え、
当時は工場毎に独立して商売をしていたので、
それぞれの工場で並行して同じスクーターが作られた。
三鷹製のスクーターには「ポニー」という名が付き、
ラビットと姿形は同でも商標は別だった。
だが既に「ポニー」は他で商標登録されており、
幻の商標となった。
三鷹も太田(呑竜)の製品もラビットに統一されたが、
当初は2つの名を持つスクーターだった事を知る人は少ない。
「ラビットに中島飛行機の持っていた飛行機のタイヤを用いた」と言われるが、
正確には誤りだ。
ラビットを設計する上で最もネックになったのがタイヤだ。
飛行機に翼はあるがサスペンションは無い。
着陸するための脚があるが、
それで走行安定性を高める訳では無い。
飛行機にタイヤはあるが、
そのタイヤに溝は無い。
空から降りるだけならスリックタイヤで良いが、
地上を走るタイヤとしては成り立たない。
ラビットの開発は苦労の連続だった。
タイヤ自体は飛行機造りで取引のある会社に頼めたが、
その会社はトレッドパターンを作る技術を有してなかった。
今では不自由ない「加硫」と呼ばれる作業も、
その当時は非常に困難なハードルだった。
試作車を作るにあたり、
最後までタイヤを調達する事が出来ず、
漸く双発爆撃機「銀河」のタイヤを倉庫の中から発見した。
残っていた僅か4個のタイヤで、
ラビットの試作機が出来上がった。
試作機は見事な快音を発して走り回ったが、
前輪が滑り転倒して停まった。
航空機で名を馳せた中島の血統は、
常に自主開発を厭わず、
果敢にチャレンジする精神を持っていた。
タイヤの加硫機から始まり、
サスペンションの設計まで常に独自で取り組んだ。
こうしてラビットは独特な進歩を遂げていく。
これは朝鮮戦争の特需で作った、
アメリカ軍の戦闘機用落下タンクをサイドカーに転用した珍しいラビットだ。
そして次の時代に移り、
ラビットS-61が誕生した。
スクーターは本格的に国民の脚となった。
225ccで6馬力、
サスペンションも大幅に改良され乗り心地が良くなった。
それをベースに作られたのが三輪ラビットだ。
ハリケーンというオートバイも作られたが、この資料館か小松の自動車博物館で見たことがあるだけだ。貴重な歴史の1頁だろう。スバルの歴史の中で、決して忘れることの出来ないスクーターは、資料館の中で一際輝きを放っていた。
終わり
その当時はまだショーウインドーなど存在せず、
中には空調も備わっていなかったが、
すっかり垢抜けた場所になっていた。
今年から研究実験センターの管理下を離れ、
本社の総務部が直接管理することになった。
だから文化財として益々大切に出来る環境が整うはずだ。
由緒正しい工場を解体した時の遺物だ。
とても良い使い方だ。
前に来た時は誰も居なかったが、
資料館の奥に膨大な資料を管理する人達が居た。
その一人が富士テクノサービス株式会社の天笠孝之さんだ。
中心的役割を果たされている。
この日も縁の下の力持ち達が、
多くの古い資産を大切にメンテナンスしていた。
保管車両が常に動く状態に維持されている。
沢山のスクーターが所狭しと並べられていた。
これを見て、
ある事が頭をよぎった。
軽自動車の生産から全面撤退すると聞いた時、
誰からも呆れられるほど冷静で居られたのは、
恐らく二つの理由からだろう。
一つは、
軽自動車の歪な販売形態に辟易としていた。
シロートでも簡単に売れるシステムは時代に迎合したかも知れないが、
クルマとしての「Proud」を完全に捨てた。
だから徐々に売る魅力を感じなくなった。
もう一つは、
子供の頃ある日突然スクータービジネスが消えた。
スバルはサブロクより前にラビットを売り始めた。
そしてスバル1000と併売しながら、
22年間の永きに渡り改良を続けた。
スバルに於けるスクーターの歴史は、
昭和43年2月5日の役員会で幕を閉じた。
その理由は皮肉にも、
当時は軽自動車のシェアアップが急務だったので、
そちらに「選択と集中」が決断された。
そして同年4月に製造が終わった。
撤退当時に生産されていたラビットが右端に並べられている。
昭和34年から販売が始まり、
7度のマイナーチェンジを経て昭和43年まで続いた。
全部で74.704台製造された名車だ。
排気量は200ccで全長1900mm定員2名車両重量150kgだった。
その左にアイボリーのラビット90ハイスーパーS211が見える。
立てスリットの簡素なグリルが目印だ。
90ccクラスの上級スクーターとして開発された「最後のラビット」だ。
昭和41年から僅か2年間だけ販売され、
昭和43年に生産が終わるまでに全部で21.564台が作られた。
排気量は90ccで5.5馬力を発生する2サイクルエンジンを、
ほぼ水平に寝かせて搭載し、
積載性を良くしたスクーターだった。
その奥に微かに並んで見えるのが、
これはS601の2年後、
昭和36年9月から販売が始まり、
何と16度にも渡るマイナーチェンジや派生車の発表を重ねた、
ベストセラーカーだ。
昭和43年5月に生産を終えた時、
その累計は145.867台だった。
排気量は125ccで軽量低価格を狙った製品だった。
どことなくスタイルに愛嬌を覚える理由は、
スバル360を担当した佐々木達三氏がデザインしたからだろう。
これらを通称ラビット三兄弟という。
子供心にも「ラビット」というと、
すぐに思い出されるのはジュニアだった。
とにかく「重い」という印象だった。
当時はなぜこれほど複雑なバリエーションがあるのか、
まだ小学校低学年の子供では理解出来なかった。
22年間もの間に渡り、
総計で637.487台生産された。
今はただもったいなかったと思うしか無いが、
いつもラビットのスクラップが放置されていた。
同じ頃から放置されていた1300Gは残して置いたが、
結局ラビットを運転する意欲が湧かず、
一台も残っていない。
中島飛行機ほど世間知らずな会社は無かった。
それは飛行機を作っていたからだ。
性能さえ良ければ国が買い上げる。
従って販売網も必要無いし、
創立以来終戦まで黙っていても仕事が来た。
飛行機の歴史はアメリカで、
ライト兄弟が空を翔けた時から始まった。
それは僅か106年前の事に過ぎない。
その7年後、
チャレンジ精神に溢れた日本人も、
遂に大空を空を翔けた。
徳川好敏と日野熊蔵の残した功績は偉大だ。
徳川大尉の操縦するフランス製のファルマン機は、
高度70m、距離3.000m、滞空時間4分の記録を残した。
共同で成し得た成果なのだろう。
その4年後、
1914年7月、第一次世界大戦が勃発した。
その時、中島知久平はフランスに居た。
直ちに呼び戻され飛行機の生産に携わり、
完成した2機のファルマン機が青島攻略戦に向かった。
その後、
知久平は大艦巨砲主義の行く末を憂い、
総勢僅か9名で中島飛行機研究所を設立した。
1917年12月10日の事だ。
来年の12月10日が「真の100年祭」となる。
東洋一の航空機生産会社「中島飛行機」はlこの様にして誕生した。
日本の歴史に残る数々の飛行機を産み出し、
国産初のジェット戦闘機も開発したが、
第二次世界大戦で敗戦した時、
全ての翼をもぎ取られた。
資料館の前を飾った煉瓦は、
内部でも見事なモニュメントを形成している。
1912年に撚糸工場として作られた煉瓦工場は、
1941年に中島飛行機に売却され、
戦闘機の製造が進められた。
終戦後はP-1の開発からスバル360まで、
この工場が起点となった。
しかしその前にも忘れてはならない歴史がある。
それが「ラビット」の誕生だ。
終戦後、それまでの技術者達は途方に暮れたが、
すぐに生きるための仕事を考え出した。
中島は他に比べ最も大きな航空会社だった故、
GHQの厳しい目に晒された。
接収され会社もズタズタに分割されたが、
12の製作所が手元に残った資材を使って生き延びた。
なにしろ鍋や釜、
それにミシンまで作り終戦直後の混乱期を生き延びた。
そんな中、
昭和20年の暮れに、
太田の呑竜工場に居た石原竜作という男が、
面白いモノを見つけて来た。
出張で中島航空機の下請けだった、
東京の野村工業を訪れた時の事だ。
そこにポウエルという米国製のスクーターがあったので、
上司の井出英次に報告した。
井出は優秀な男で、
その話を聞くとすぐに野村工業からポウエルを借用し、
製品化の可能性を探った。
そして車体を太田の呑竜工場が担当し、
エンジンを三鷹工場が開発する事になった。
これがラビットS-1型の誕生に繋がる経緯だ。
このスクーターには呑竜工場で作られたことが明確に記されている。
これの発見には逸話がある。
竹中元社長がスバルの誕生50周年を記念し、
現在のビジターセンターを計画した。
表に出るとまずいので秘密裏に古いスバルを探す日が続いていた。
そんなある日、
群馬県の農家で納屋の中から、
奇跡的に原形を留めたラビットが見つかった。
お金の問題では無く譲れないという持ち主を、
スバルの社員が丁寧に説得してこの場所へ戻ってきた。
なんと55年ぶりの里帰りだった。
納屋の中とは言え、
普通なら錆びてしまうはずだが、
奇麗に残ったのには理由がある。
この車体の板金部品は、
戦闘機の残り物で作られている。
すなわち素材にジェラルミンが使われているため、
ほとんど腐食せずに原形を留めた。
太田と東京の三鷹工場で担当を分けたとは言え、
当時は工場毎に独立して商売をしていたので、
それぞれの工場で並行して同じスクーターが作られた。
三鷹製のスクーターには「ポニー」という名が付き、
ラビットと姿形は同でも商標は別だった。
だが既に「ポニー」は他で商標登録されており、
幻の商標となった。
三鷹も太田(呑竜)の製品もラビットに統一されたが、
当初は2つの名を持つスクーターだった事を知る人は少ない。
「ラビットに中島飛行機の持っていた飛行機のタイヤを用いた」と言われるが、
正確には誤りだ。
ラビットを設計する上で最もネックになったのがタイヤだ。
飛行機に翼はあるがサスペンションは無い。
着陸するための脚があるが、
それで走行安定性を高める訳では無い。
飛行機にタイヤはあるが、
そのタイヤに溝は無い。
空から降りるだけならスリックタイヤで良いが、
地上を走るタイヤとしては成り立たない。
ラビットの開発は苦労の連続だった。
タイヤ自体は飛行機造りで取引のある会社に頼めたが、
その会社はトレッドパターンを作る技術を有してなかった。
今では不自由ない「加硫」と呼ばれる作業も、
その当時は非常に困難なハードルだった。
試作車を作るにあたり、
最後までタイヤを調達する事が出来ず、
漸く双発爆撃機「銀河」のタイヤを倉庫の中から発見した。
残っていた僅か4個のタイヤで、
ラビットの試作機が出来上がった。
試作機は見事な快音を発して走り回ったが、
前輪が滑り転倒して停まった。
航空機で名を馳せた中島の血統は、
常に自主開発を厭わず、
果敢にチャレンジする精神を持っていた。
タイヤの加硫機から始まり、
サスペンションの設計まで常に独自で取り組んだ。
こうしてラビットは独特な進歩を遂げていく。
アメリカ軍の戦闘機用落下タンクをサイドカーに転用した珍しいラビットだ。
そして次の時代に移り、
スクーターは本格的に国民の脚となった。
225ccで6馬力、
サスペンションも大幅に改良され乗り心地が良くなった。
終わり