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Channel: 中津スバルの濃いスバリストに贈る情報
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歴史探訪ースバルに溢れたモノと渇望したモノ

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ライト兄弟が世界で初めて飛行機で空を翔けた。
僅か106年前のことだ。
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その7年後、
チャレンジ精神に溢れた日本人も、
遂に大空を空を翔けた。
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徳川好敏と日野熊蔵の残した功績は偉大だ。
徳川大尉の操縦するフランス製のファルマン機は、
高度70m、距離3.000m、滞空時間4分の記録を残した。
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その4年後、
1914年7月、第一次世界大戦が勃発した。


その時、中島知久平はフランスに居た。
直ちに呼び戻され飛行機の生産に携わり、
完成した2機のファルマン機が青島攻略戦に向かった。


その後、
知久平は大艦巨砲主義の行く末を憂い、
総勢僅か9名で中島飛行機研究所を設立した。


1917年12月10日の事だ。
来年の12月10日が「真の100年祭」となる。


東洋一の航空機生産会社「中島飛行機」はlこの様にして誕生した。
日本の歴史に残る数々の飛行機を産み出し、
国産初のジェット戦闘機も開発したが、
第二次世界大戦で敗戦した時、
全ての翼をもぎ取られた。
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6年ぶりにここへ来た。
当時はまだショーウインドーなど存在せず、
中には空調も備わっていなかった。



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工場を解体した時の煉瓦だろうか。
なかなか上手い使い方だ。
1912年に撚糸工場として作られた煉瓦工場は、
1941年に中島飛行機に売却され戦闘機の製造が進められた。


終戦後はP-1の開発からスバル360まで、
この工場が起点となった。
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資料館の奥に、
お宝を管理する人達が居た。
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富士テクノサービス株式会社の天笠孝之さんだ。


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群馬事業所のレストアチームで、
中心的役割を果たされている。

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この人達の手で、
保管車両が常に動く状態に維持されていた。



終戦後、それまでの技術者達は途方に暮れたが、
すぐに生きるための仕事を考え出した。


最も大きな航空会社故、
GHQの厳しい目でズタズタに分割されたが、
12の製作所が手元に残った資材で鍋や釜、ミシンまで作り生き延びた。


太田の呑竜工場に居た石原竜作が面白いモノを見つけた。


中島航空機の下請けだった、
東京の野村工業に、
ポウエルという米国製のスクーターがあったのだ。


これがラビットS-1型の誕生に繋がった。
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このスクーターには呑竜工場で作られたことが明確に記されているが、
東京の三鷹工場でも並行してスクーターが作られた。


それには「ポニー」という名が付き、
ラビットと同でも商標は別だった。

だが既に「ポニー」は他で商標登録されており、
幻の商標となった。


結局、三鷹も太田(呑竜)の製品にもラビットに統一された。
当初は2つの名を持つスクーターだった事を知る人は少ない。





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