保護紙に大切にくるまれたままの珍しい梨を戴いた。
どんな味がするのだろうか。
ところが、
まるでそんなことは無く、
まさに食べ頃だった。
その上甘かった。
生田さん、
ありがとうございました。
四日市市から山田さんがいらっしゃった。
三重県から自転車駆って引き取りにいらっしゃった。
当然のことながら、
普通の自転車ではない。
とても念入りに整備された素晴らしい愛機だ。
まさに6輪ライフを満喫していらっしゃる。
その愛機にはソニーのハンディカメラが搭載され、
ドラレコ代わりに活用されている。
外部電源もモンベルのポーチの中に装備され、
こうした装備は、
自転車には絶対必要だろう。
何か起きた時の客観的な記録にもなる。
山田さん、
車検にご入庫いただき有難うございました。
これからもよろしくお願いします。
実はこのカメラと全く同じものを、
生田さんから貸与されている。
ブログに使う動画撮影に役立てるようにとの配慮だ。
ありがたく拝受し、
使わせていただこうと思う。
22Bオーナーズミーティングが終わり、
濃いクルマの波動を体中に感じた。
その味を知ると血が騒ぐからだ。
血が騒いだついでに、
地味だけれど重要な意味を持つクルマを確かめた。
22Bは純然たるメモリアルカーだ。
だから価値が高い。
単なる限定車だけでは1千万円を超えるプレミアム価格には達さない。
日本車初のWRC三連覇を記念して企画された。
まさしく優勝記念限定車の集大成なのだ。
その後GDBにスイッチして、
2001年にリチャード・バーンズがドライバーズタイトルを取り、
2003年にぺター・ソルベルグも同じタイトルを取った。
バーンズの時は一勝しかでき無かったが、
安定してポイントを稼ぎタイトルを取った。
ペターは4勝し、
最終戦でタイトルをもぎ取った。
その優勝記念車がここにある。
以前にも取り上げたので覚えている人も多いはずだ。
このクルマに出会った時も直感だった。
走行距離は多いけれど、
酷使されたクルマには見えなかった。
流れ流れて中津川にたどり着いた、
555台のうちの1台だ。
「残す気」の方が大きいが、
社員に道楽だと叱られそうなので大切に売る。
あの頃はWRCに取り組む姿勢の良い点と悪い点が混在していた。
日本人ドライバーとして新井敏弘も送り込んだ。
そしてMSIと呼ばれた組織だったろうか、
それが出来た頃から日本人の態度がやたらに大きくなった気がした。
対照的に戦果は落ちた。
そしてリーマンショックを境に、
WRCから撤退した。
リーマンショック、
それは本当にショッキングだった。
もしあれが無ければどうなっていたのか。
それは誰にもわからない。
最後の晴れ舞台が2003年だ。
開発の方向性が間違っていなかったことは、
その後の戦歴で十分実証できる。
ストラットのサスペンションが、
ラリーでいかに有効かと言う事も実証した。
未だに高い戦闘力を持っている。
海外にもファンが多い。
このモデルの良い所はDCCDにある。
雑なステアリング操作で、
クルマの動きが破たんしそうになった時に威力を発揮する。
ユニークな制御マッピングで、
トルク配分比をDCCDの歴史上もっとも過激な35:65に戻し、
自動的に15%の範囲でロックするまで瞬時に変える。
デフォルトでオートモードになっている。
マニュアルスイッチでオートを解除すると、
ダイヤル操作で5段階に切り替えられる。
このフリー状態だと、
クルマの動きをオートモードよりダイレクトに操れる。
非常に面白い。
クルマの動きに窮屈感が出る。
すなわち一番伸び伸びした走りのGDBなのだ。
最新のWRX STIが結局この方式に戻ったことからも、
このシステムの優位性が解るはずだ。
それにさすがの最新型さえ、
35:65に戻す勇気はなかった。
現在の高度な車体統合制御を考えると、
電磁ロックではそこまでが限界なのだ。
ニュルブルクリンクでM4の高い車体制御能力と、
度外れたレベルのタイヤ性能を確認した後だと、
高い油圧システムによる駆動配分装置が不可欠だと思った。
このGDBにはFRの特性丸出しの部分もある。
だからターマックの回頭性が良い。
だからスバルは裃を脱ぎ捨てた途端に、
BRZのような良いFRが作れたんだ。
改めて80キロテストして思った。
このクルマはメモリアルカーとして高い価値を持つ。
それに当時このクルマは車体価格だけで360万円する、
とても高級な車だった
そう簡単に誰でも購入できたわけでは無い。
生田さんから預かっているカメラを使い、
一度思いっきり走らせてみよう。
その時をお楽しみに。