約束通り2回に分けて紹介しよう。
10年なんて早いもので、
今年もあっと言う間にひと月分終わってしまった。
10年前の2006年を振り返ると、
あの年はスバルにとって決して明るい一年ではなかった。
ラリーでは全く勝てないし、
期待のステラも今一つ販売が伸びなかった。
急激な原油高の影響で、
登録車の方もぱったり売れなくなってしまったり、
マイナス要素を探り出せばきりが無かった。
人生を楽しく過ごすには前を向くのが一番だ。
後ろ向きになったり捻くれたりする原因は、
おそらく劣等感によるものだろう。
潜在意識の中に劣等感が大きく横たわると、
拗ねた考え方に支配され、
人に唾を吐きかけるような、
恥ずかしい事をしても平気になってしまう。
哀れな事だ。
2006年のスバルは、
たとえ業績が悪くても、
本業とは関係ないところでは、
何かと元気な姿が目についた。
①マラソンでスバルの奥谷選手が日本人最高の4位に入り世界選手権出場を決めた。
②社会人野球で20年ぶりに日本一になった。
③JDパワーの軽自動車サービス満足度調査で日産と同率首位をとった。
④ロボット大賞をとった。
それらの明るい話題が続き、
極めつけの話題も出た。
ハンカチ王子のお父さんが富士重工の社員だという噂が聞こえ始めたのだ。
その噂は本当で、
当時物流子会社のスバルロジスティックスに勤務されていた。
それから10年。
ハンカチ王子も劣等感にさいなまれていたのかもしれない。
外車をおねだりしたのは残念だな。
ポルシェの良さも十分知りながら、
普段の脚にフォレスターを乗り回す。
そんな人なら、
もっと野球の実力も伸びたかもしれない。
要するに人生には幅が必要だ。
長いか短いかを決めるのは、
何を残したのかに左右される。
決して時間の問題では無い。
ハンカチ王子とライバルとの差が、
卒業と同時に急激に開いてしまったのも、
そんなところに理由があるのだろう。
中津スバルにとって、
2006年はターニングポイントだった。
そこから約8年さかのぼる。
その年にインプレッサWRX STIバージョン「22B」が発売された。
1998年の事だった。
その年の3月23日、
群馬県の矢島工場で目の前を流れていく改造前のコアボディを見送った。
恐らくその時に22Bとの運命的な関係が始まったのだろう。
僅か400台しか生産されなかった22Bなど、
ほとんどの日本人にとって何の意味も持たないクルマだった。
今でも存在を知らない人が多い。
STIにとって500万円の壁を超える大胆な挑戦でもあった。
証券会社の破綻や銀行の統合など、
決して景気は良くなかったので割安な金額に抑えられたこともあり、
あっという間に完売した。
その8年後に思わぬ事が起き始める。
R1/R2の販売計画は予想を大きく下回り、
急遽トールスタイルの軽自動車を開発した。
新年から群馬に招集され、
そのプロトタイプを見た瞬間に「これで終わった」と悟ったのだろう。
後から多くの人に言われた。
物凄い形相をしていたらしい。
一時的に持ち直したがプレオほどの勢いはなかった。
もうこれまでの売り方ではだめだと思った。
当社初のCMを制作しようと思い立った訳も、
振り返ればそこにあるのかもしれない。
ほぼ時を同じくして、
22Bオーナーズミーティングの開催も持ち掛けられた。
そして11月22日に「ベントレーを貸すから乗ってみろ」と、
じっくりと丸一日走り回った。
外車コンプレックスのあるヤツには解らない世界だ。
なぜかって?
本当のクルマ好きでは無いから、
クルマが嫌がって近づいてこない。
つまりコドモだと言う事だ
ベントレーから欧州メーカーにある根の部分と、
スバルに欠ける創業時の魂を痛いほど感じた。
その翌日に22Bオーナーズミーティングが開催され、
CMの録画撮りも同時に進められた。
とにかく振り返ると驚くほど濃い時間を過ごした。
この時を境にして10年間で当社を取り巻く環境が大きく変わった。
翌年の2007年4月にニューヨークを訪れた。
米国でワールドプレミアしたインプレッサを見るためだ。
国内に予定のないセダンを見て、
販売環境の大きな違いに驚いた。
トライベッカを見て米国の求めるサイズも良く理解できた。
スバルが全面的にバックアップしてくれたので、
スバルの世界における評価を詳しく知る事ができた。
年の瀬にフォレスターが発売になると、
蛻変の芽を感じ取った。
余りにもコスパが高かったからだ。
価格を付け間違えたかと思うほど良心的な金額だった。
やはり輸出に強くならないと日本で企業は存続できない。
SABと望桜荘の創設にも着手し、
まずSABを11月5日に完成させた。
そして年をまたぎ2008年の3月22日に望桜荘を完成させた。
こけら落としはWRXのPGMを招いた商品研究会だった。
現STI商品企画部長の森さんが、
直々に講演を引き受けて下さった。
サインをもらうのに行列が出来たほどインパクトがあった。
その翌月、
世間を驚かせる出来事が発表された。
その事を全く知らぬまま、
機上の人となった。
今は無いホバークラフトで移動した。
最初で最後の経験になったが、
隣の男も今ではすっかり税偏した。
昨年から船井総合研究所の代表取締役社長に就任し、
荒波の中を前途洋々と航海している。
小平さんも当時から頭角を現し、
軽自動車ビジネスを車業界の頂点に引っ張り上げた。
ナベもまだ若々しい。
失敗や失言を繰り返す可愛い男だ。
九州の各地で軽自動車を未使用車で売るための専門店が増え始めた頃だ。
視察先も様々だった。
この周辺はまだ田んぼや畑しかなかった。
黎明期から見事に開花し始めた専門店業態だが、
なぜか全く魅力を感じなかった。
こういう時はいつも周辺の状況を取材する。
近隣の人たちは本当に目を丸くして、
「休みの日は凄い人だかりだよ」と驚いていたのが印象に残ってる。
同時にこの売り方を見て軽自動車の行く末を悟った。
もう駄目だなと思っていた矢先の事だった。
この直後バスで移動中に電話があり、
スバルが軽自動車から撤退すると聞いた。
全く動揺することなく、
「それが一番良い」と直感した理由は、
ここまでの過程を振り返れば解る。
2008年4月9日。
この日を偉大な日と呼んでいる。
翌々月にエクシーガが発売になり、
待望の多人数ワゴンをラインアップに加えた。
2009年に5代目レガシィが登場した。
このレガシィが国内で苦戦した。
大きくなったのが原因だと言われているが、
エコカー補助金制度が出来て補助金に群がる、
それが理由だろう。
この環境変化に対応しスバルはアイサイトを炸裂させた。
本当にすごい会社だ。
だが震災が襲い掛かり、
スバルだけでなく日本中の自動車会社が苦境に立たされ、
つらい時期をおくった。
だがそれを乗り越え、
2012年のインプレッサとBRZ,
2013年のハイブリッド参入、
2014年のレヴォーグ、WRX、レガシィの連続投入と気を吐いた。
2015年こそ商品の端境期でピンチになるかと思われたが、
商品を練り込むことで飢えをしのぎ、
昨年遂に満を持してSGPを投入した。
するとまた中津スバルの周辺が変わり始める。
まず昨年から環境改善を再開した途端、
ポールスターがやって来た。
これはエピローグだったのだ。
そしてi8がやって来た。
遂にアルピナB7も訪れた。
高性能なエアサスを搭載している。
このボタンを押すとグッと車体が持ち上がり、
不陸をいとも簡単に乗り越える。
ゆとりあるコンソールパネルには、
ウッドを中心にクオリティの高いマテリアルが上品に配される。
21インチのタイヤサイズだとは思えない乗り心地だ。
これもエアサスの恩恵だろう。
エアサスの技術はスバルが世界に先駆けて開発したが、
売る対象がコドモだったので途中で絶えた。
惜しい事をしたものだ。
運転席のアシストグリップもクオリティが高い。
手抜きしない姿勢は素晴らしいが、
BMW本体がドアの把手を採用したのは誠に遺憾だ
ドアを開けるとドライバーの目に留まるのは、カーボンを使っている事を訴えるプレートだ。
それにデコラインをいくら外しても、アルピナである事を訴える刻印が、まるで入れ墨のように施されている。
カーメーカーとしてのプライドだろう。
大輔こと阿野さんを紹介しよう。
東京の練馬区にお住いだ。
独自技術を駆使して道路建設にかかわる事業を営んでおられる。
彼の会社が存在しないと非常に困る。
日本の道路に欠かせない存在だ。
風のように去って行った。
運転技術も凄いが、
彼の人間力は果てしなく深く大きい。
大輔から地元の銘菓を頂戴した。
郷土史に残る力持ち惣兵衛の名代和菓子の「惣兵衛最中」だ。
小豆を最も大切な素材と考え、
自然食としての和菓子作りを目指している。
東京練馬区有形民族登録文化財の、
歴史と伝統を後世に伝える事が、
この老舗の役目だという。
実に旨い和菓子だ。
スバルにも同じことが言える。
動力性能の追求を回避し、
中島の歴史と伝統を後世に残さないなら、
いくら利益を上げたところで存在する価値が薄れてしまう。
これはこれから先の10年に向かうエピローグだ。
堂々たるアウトバックを見てそのように直感した。
アウトバックのX-アドバンスを購入した理由は、
カラーセンスの良さだ。
本当に塗装の質も良くなった。
ぬめり感のあるプラチナムグレーに、
イエローグリーンの差し色は良く映える。
これだけ存在感のあるボディなので、
本来ならば室内にも天然系の配色が欲しい。
しかしカタログモデルでは限界だ。
いくら特別仕様車にしてもインテリアのマテリアルや動力性能に選択幅が狭い。
もしSTIがメーカーとしての機能を持てば、そんな問題は霧散し、
自由に質の高いものを世の中の繰り出せるはずだ。
B4のスポルティーバもまもなく届く。
あれほどお買い得なクルマはそう他にないだろう。
ところが顧客の注目を浴びない理由は、
もう一歩のステップを期待しているに他ならない。
あれほどのインテリアを持つ車の動力性能が、
吊るしのクルマと同じでは財布のひもをこじ開ける迄に至らない。
ではこの米国仕様の6気筒搭載車にターボを付けて、
8速より上等な9速オートマチックを搭載したらどうなるか。
きっとアウトバーンの第三車線を、
時速200キロオーバーで楽々と巡行する・・・・・・・訳にはいかない。
過去に二度異なるアウトバックでアウトバーンを走行したが、
アルピナレベルの高速特性を得られるのは、
時速150キロ以下までだろう。
今のスバルの常識では、
そのあたりまでしか挑戦できない。
理由は簡単で、
フロントフレームの剛性が全く足りず、
振動騒音の両面で太刀打ちできない。
走行安定性も並みの日本車より高いけれど、
アウトバーンの第三車線で通用するほど高くない。
ところがスバルはそこを全面的に見直した。
これから3年後に出てくるクルマは、
今のレベルと全く違う。
スバルがSTIをメーカーとして独り立ちさせるつもりがあるなら、
この先の将来は非常に明るい。
なぜなら素のクルマも手抜きができなくなる。
黙っていたら絶対に手を抜くだろう。
それは企業として当たり前だ。
あえてリスクを掴みに行く必要は無い。
動力性能に固執しなければ、
器をそれほど強固にする必要が無い。
適当な改良でもSGPを使えばクルマが豹変する。
もしSTIに600馬力のクルマを作らせるならば、
SGPをこれからもより一層練り込まねばならぬ。
過去10年を振り返り、
プロローグを感じ取った。
STIは必ず独り立ちする日が来る。
スバル本体がSTIのエッセンスだけ搾り取るような、
そんなクルマ作りではもう駄目だ。
スバルよ、
動力性能追求の封印を解け!
自ずから関わらなくて良い。
その全てをSTIに託すのだ。
スバル以上の孤高の存在だと仰ぎ、
敬意を表して開発費を払うのだ。
積極的に投資して、
生産設備を与えて欲しい。
STIの蛻変を心から期待する。
そうしないと少しも面白くない。
優等生ばかりでは世の中成り立たないぞ。
STIをもっとクールなヒールにしようぜ。
中津スバルもクールなヒールに徹しよう。
益々満足度調査の逆を行く。
駐車場は解りにくいし、
お見送りもお迎えもしない。
その代わりSを望むスバリストには、
徹底的なホスピタリティを提供したい。
その計画をこれから10年掛けて完成させる。
「インプレッサハウス設立計画」は、
更に加速した。
スバルのルーツ生誕100年を記念し、
いよいよ試験運用が始まる。
楽しみにして欲しい。
10年なんて早いもので、
今年もあっと言う間にひと月分終わってしまった。
10年前の2006年を振り返ると、
あの年はスバルにとって決して明るい一年ではなかった。
ラリーでは全く勝てないし、
期待のステラも今一つ販売が伸びなかった。
急激な原油高の影響で、
登録車の方もぱったり売れなくなってしまったり、
マイナス要素を探り出せばきりが無かった。
人生を楽しく過ごすには前を向くのが一番だ。
後ろ向きになったり捻くれたりする原因は、
おそらく劣等感によるものだろう。
潜在意識の中に劣等感が大きく横たわると、
拗ねた考え方に支配され、
人に唾を吐きかけるような、
恥ずかしい事をしても平気になってしまう。
哀れな事だ。
2006年のスバルは、
たとえ業績が悪くても、
本業とは関係ないところでは、
何かと元気な姿が目についた。
①マラソンでスバルの奥谷選手が日本人最高の4位に入り世界選手権出場を決めた。
②社会人野球で20年ぶりに日本一になった。
③JDパワーの軽自動車サービス満足度調査で日産と同率首位をとった。
④ロボット大賞をとった。
それらの明るい話題が続き、
極めつけの話題も出た。
ハンカチ王子のお父さんが富士重工の社員だという噂が聞こえ始めたのだ。
その噂は本当で、
当時物流子会社のスバルロジスティックスに勤務されていた。
それから10年。
ハンカチ王子も劣等感にさいなまれていたのかもしれない。
外車をおねだりしたのは残念だな。
ポルシェの良さも十分知りながら、
普段の脚にフォレスターを乗り回す。
そんな人なら、
もっと野球の実力も伸びたかもしれない。
要するに人生には幅が必要だ。
長いか短いかを決めるのは、
何を残したのかに左右される。
決して時間の問題では無い。
ハンカチ王子とライバルとの差が、
卒業と同時に急激に開いてしまったのも、
そんなところに理由があるのだろう。
中津スバルにとって、
2006年はターニングポイントだった。
そこから約8年さかのぼる。
その年にインプレッサWRX STIバージョン「22B」が発売された。
1998年の事だった。
その年の3月23日、
群馬県の矢島工場で目の前を流れていく改造前のコアボディを見送った。
恐らくその時に22Bとの運命的な関係が始まったのだろう。
僅か400台しか生産されなかった22Bなど、
ほとんどの日本人にとって何の意味も持たないクルマだった。
今でも存在を知らない人が多い。
STIにとって500万円の壁を超える大胆な挑戦でもあった。
証券会社の破綻や銀行の統合など、
決して景気は良くなかったので割安な金額に抑えられたこともあり、
あっという間に完売した。
その8年後に思わぬ事が起き始める。
R1/R2の販売計画は予想を大きく下回り、
急遽トールスタイルの軽自動車を開発した。
新年から群馬に招集され、
そのプロトタイプを見た瞬間に「これで終わった」と悟ったのだろう。
後から多くの人に言われた。
物凄い形相をしていたらしい。
一時的に持ち直したがプレオほどの勢いはなかった。
もうこれまでの売り方ではだめだと思った。
当社初のCMを制作しようと思い立った訳も、
振り返ればそこにあるのかもしれない。
ほぼ時を同じくして、
22Bオーナーズミーティングの開催も持ち掛けられた。
そして11月22日に「ベントレーを貸すから乗ってみろ」と、
じっくりと丸一日走り回った。
外車コンプレックスのあるヤツには解らない世界だ。
なぜかって?
本当のクルマ好きでは無いから、
クルマが嫌がって近づいてこない。
つまりコドモだと言う事だ
ベントレーから欧州メーカーにある根の部分と、
スバルに欠ける創業時の魂を痛いほど感じた。
その翌日に22Bオーナーズミーティングが開催され、
CMの録画撮りも同時に進められた。
とにかく振り返ると驚くほど濃い時間を過ごした。
この時を境にして10年間で当社を取り巻く環境が大きく変わった。
翌年の2007年4月にニューヨークを訪れた。
米国でワールドプレミアしたインプレッサを見るためだ。
国内に予定のないセダンを見て、
販売環境の大きな違いに驚いた。
トライベッカを見て米国の求めるサイズも良く理解できた。
スバルが全面的にバックアップしてくれたので、
スバルの世界における評価を詳しく知る事ができた。
年の瀬にフォレスターが発売になると、
蛻変の芽を感じ取った。
余りにもコスパが高かったからだ。
価格を付け間違えたかと思うほど良心的な金額だった。
やはり輸出に強くならないと日本で企業は存続できない。
SABと望桜荘の創設にも着手し、
まずSABを11月5日に完成させた。
そして年をまたぎ2008年の3月22日に望桜荘を完成させた。
直々に講演を引き受けて下さった。
サインをもらうのに行列が出来たほどインパクトがあった。
その翌月、
世間を驚かせる出来事が発表された。
その事を全く知らぬまま、
機上の人となった。
今は無いホバークラフトで移動した。
最初で最後の経験になったが、
隣の男も今ではすっかり税偏した。
昨年から船井総合研究所の代表取締役社長に就任し、
荒波の中を前途洋々と航海している。
小平さんも当時から頭角を現し、
軽自動車ビジネスを車業界の頂点に引っ張り上げた。
ナベもまだ若々しい。
視察先も様々だった。
この周辺はまだ田んぼや畑しかなかった。
黎明期から見事に開花し始めた専門店業態だが、
なぜか全く魅力を感じなかった。
こういう時はいつも周辺の状況を取材する。
近隣の人たちは本当に目を丸くして、
「休みの日は凄い人だかりだよ」と驚いていたのが印象に残ってる。
同時にこの売り方を見て軽自動車の行く末を悟った。
この直後バスで移動中に電話があり、
スバルが軽自動車から撤退すると聞いた。
全く動揺することなく、
「それが一番良い」と直感した理由は、
ここまでの過程を振り返れば解る。
2008年4月9日。
この日を偉大な日と呼んでいる。
翌々月にエクシーガが発売になり、
待望の多人数ワゴンをラインアップに加えた。
2009年に5代目レガシィが登場した。
このレガシィが国内で苦戦した。
大きくなったのが原因だと言われているが、
エコカー補助金制度が出来て補助金に群がる、
それが理由だろう。
この環境変化に対応しスバルはアイサイトを炸裂させた。
本当にすごい会社だ。
だが震災が襲い掛かり、
スバルだけでなく日本中の自動車会社が苦境に立たされ、
つらい時期をおくった。
だがそれを乗り越え、
2012年のインプレッサとBRZ,
2013年のハイブリッド参入、
2014年のレヴォーグ、WRX、レガシィの連続投入と気を吐いた。
2015年こそ商品の端境期でピンチになるかと思われたが、
商品を練り込むことで飢えをしのぎ、
昨年遂に満を持してSGPを投入した。
するとまた中津スバルの周辺が変わり始める。
まず昨年から環境改善を再開した途端、
ポールスターがやって来た。
これはエピローグだったのだ。
そしてi8がやって来た。
遂にアルピナB7も訪れた。
このボタンを押すとグッと車体が持ち上がり、
不陸をいとも簡単に乗り越える。
ゆとりあるコンソールパネルには、
ウッドを中心にクオリティの高いマテリアルが上品に配される。
21インチのタイヤサイズだとは思えない乗り心地だ。
エアサスの技術はスバルが世界に先駆けて開発したが、
売る対象がコドモだったので途中で絶えた。
惜しい事をしたものだ。
運転席のアシストグリップもクオリティが高い。
手抜きしない姿勢は素晴らしいが、
BMW本体がドアの把手を採用したのは誠に遺憾だ
それにデコラインをいくら外しても、アルピナである事を訴える刻印が、まるで入れ墨のように施されている。
大輔こと阿野さんを紹介しよう。
東京の練馬区にお住いだ。
独自技術を駆使して道路建設にかかわる事業を営んでおられる。
彼の会社が存在しないと非常に困る。
日本の道路に欠かせない存在だ。
運転技術も凄いが、
彼の人間力は果てしなく深く大きい。
大輔から地元の銘菓を頂戴した。
郷土史に残る力持ち惣兵衛の名代和菓子の「惣兵衛最中」だ。
小豆を最も大切な素材と考え、
自然食としての和菓子作りを目指している。
東京練馬区有形民族登録文化財の、
歴史と伝統を後世に伝える事が、
この老舗の役目だという。
スバルにも同じことが言える。
動力性能の追求を回避し、
中島の歴史と伝統を後世に残さないなら、
いくら利益を上げたところで存在する価値が薄れてしまう。
これはこれから先の10年に向かうエピローグだ。
堂々たるアウトバックを見てそのように直感した。
アウトバックのX-アドバンスを購入した理由は、
カラーセンスの良さだ。
本当に塗装の質も良くなった。
ぬめり感のあるプラチナムグレーに、
イエローグリーンの差し色は良く映える。
これだけ存在感のあるボディなので、
本来ならば室内にも天然系の配色が欲しい。
しかしカタログモデルでは限界だ。
いくら特別仕様車にしてもインテリアのマテリアルや動力性能に選択幅が狭い。
もしSTIがメーカーとしての機能を持てば、そんな問題は霧散し、
自由に質の高いものを世の中の繰り出せるはずだ。
B4のスポルティーバもまもなく届く。
あれほどお買い得なクルマはそう他にないだろう。
ところが顧客の注目を浴びない理由は、
もう一歩のステップを期待しているに他ならない。
あれほどのインテリアを持つ車の動力性能が、
吊るしのクルマと同じでは財布のひもをこじ開ける迄に至らない。
ではこの米国仕様の6気筒搭載車にターボを付けて、
8速より上等な9速オートマチックを搭載したらどうなるか。
きっとアウトバーンの第三車線を、
時速200キロオーバーで楽々と巡行する・・・・・・・訳にはいかない。
過去に二度異なるアウトバックでアウトバーンを走行したが、
アルピナレベルの高速特性を得られるのは、
時速150キロ以下までだろう。
今のスバルの常識では、
そのあたりまでしか挑戦できない。
理由は簡単で、
フロントフレームの剛性が全く足りず、
振動騒音の両面で太刀打ちできない。
走行安定性も並みの日本車より高いけれど、
アウトバーンの第三車線で通用するほど高くない。
ところがスバルはそこを全面的に見直した。
これから3年後に出てくるクルマは、
今のレベルと全く違う。
スバルがSTIをメーカーとして独り立ちさせるつもりがあるなら、
この先の将来は非常に明るい。
なぜなら素のクルマも手抜きができなくなる。
黙っていたら絶対に手を抜くだろう。
それは企業として当たり前だ。
あえてリスクを掴みに行く必要は無い。
動力性能に固執しなければ、
器をそれほど強固にする必要が無い。
適当な改良でもSGPを使えばクルマが豹変する。
もしSTIに600馬力のクルマを作らせるならば、
SGPをこれからもより一層練り込まねばならぬ。
過去10年を振り返り、
プロローグを感じ取った。
STIは必ず独り立ちする日が来る。
スバル本体がSTIのエッセンスだけ搾り取るような、
そんなクルマ作りではもう駄目だ。
スバルよ、
動力性能追求の封印を解け!
自ずから関わらなくて良い。
その全てをSTIに託すのだ。
スバル以上の孤高の存在だと仰ぎ、
敬意を表して開発費を払うのだ。
積極的に投資して、
生産設備を与えて欲しい。
STIの蛻変を心から期待する。
優等生ばかりでは世の中成り立たないぞ。
STIをもっとクールなヒールにしようぜ。
中津スバルもクールなヒールに徹しよう。
益々満足度調査の逆を行く。
駐車場は解りにくいし、
お見送りもお迎えもしない。
その代わりSを望むスバリストには、
徹底的なホスピタリティを提供したい。
その計画をこれから10年掛けて完成させる。
「インプレッサハウス設立計画」は、
更に加速した。
スバルのルーツ生誕100年を記念し、
いよいよ試験運用が始まる。
楽しみにして欲しい。